◆アンドレイ・タルコフスキーの略歴
Andrei Arsenyevich Tarkovsky
1932.4.4〜1986.12.28
アンドレイ・タルコフスキーは、セルゲイ・エイゼンシュタイン以降、最も有名なソビエト映画監督と言われている。詩人アルセニー・タルコフスキーの息子として、ソビエト連邦ヴォルガ川流域ユリエヴェツ近郊ザブラジェで生まれる。モスクワで音楽とアラビア語を学んだ後、ソビエトフィルムスクールVGIKに入学。
1960年、アンドレイ・タルコフスキーは卒業制作となる短編
「ローラーとバイオリン」を監督。1962年、ウラジーミル・ボゴモーロフのベストセラー小説
「イワン」 を原作とした長編
「僕の村は戦場だった(Ivanovo detstvo)」
を監督し、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を獲得し、世界的な評価を得た。
アンドレイ・タルコフスキーが1964〜66年にかけて撮影した「アンドレイ・ルブリョフ(Andrei
Rublyov)」は、15世紀タタールの侵入を受けたロシア民族を描いているため、ソビエト当局に問題視され、67年のカンヌ映画祭ではプログラムから削除されてしまう。1969年のカンヌ映画祭では、批評家連盟賞を受賞し、1971年に上映が解禁され、1973年にはじめて西側で上映された、数奇な運命を持つ映画である。
「惑星ソラリス(solyaris)」
(1972年)は、西側では、キューブリックの「2001年」と比較され、絶賛される。(アンドレイ・タルコフスキー自身はこの比較を好ましく思ってはいなかったが...)。
「鏡(Zerkalo)」
(1975年)は、てアンドレイ・タルコフスキーの自叙伝的な記憶を描いているが、その中で、かなり革新的な(危険な...)プロットを埋込んでいるために、再び当局とのトラブルを招くことになる。
事故により最初の版を破壊してしまった「ストーカー(Stalker)」
(1979年)は劇的に減らされた予算で、見事なまでの表現を実現している。
そして「ノスタルジア(Nostalghia)」
(1983年)の後で西に亡命。
アンドレイ・タルコフスキーの最後のフィルム、「サクリファイス(Offret)」
(1986年)はスウェーデンで主にイングマール・ベルイマンの映画に携わっていたスタッフのもとで撮られ、カンヌ映画祭では、ほとんど前例のない4つ賞を受賞した。アンドレイ・タルコフスキーは、その年の年末に癌で死んだ。
◆「ストーカー」に関する記述はこちらから。
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