かつて、海外で最も有名な映画監督といえば、小津安二郎だった。海外での映画祭で日本人監督が活躍する中、小津安二郎だったというのだ。最近でも、ヴィム・ベンダースやアキ・カウリスマキなどの映画監督は、小津安二郎に強烈な影響を受けていると語っている。(ドキュメンタリー映画「小津と語る」)。なぜ、小津安二郎は、時代と空間を超えて重要な存在なのか。小津安二郎が意図していたことはなんなのか。現代を生きる私たちも、考えてみる必要がありそうだ。
小津安二郎の代表作「東京物語」に描かれている光景は、どこかで見たような懐かしさを感じさせるが、実は、普段見ることのない光景だ。たとえばロー・アングルの画面では、不作法に寝転がって相手を見ない限り、見えてこないものを見ることになる。
ロー・アングル...、長年、畳に座る文化の中で生活してきた日本人の表情やしぐさは、座っている時の視線を意識して形成されてきたもので、立った姿勢の視点を基準とする西洋式のカメラ視点では、相手のそれを正確に読み取ることはできない。だから、座っている日本人をきちんと捉えるためには、低い位置にカメラを設定する必要がある。
さらに、日本人の表情や立ち振る舞いは、伏目がちに、内に抑えられたものとなっているので、その奥に隠された感情を画面に表現するためには、もう一段低い位置にカメラを設置せざるを得ない...それがこの寝転がって相手を見る高さ、ロー・アングルだったのではないか...。
彼の映画の多くが家族をテーマにしている。現在でも彼の評価が国内外で高いのは、こうした普遍のテーマを真面目に撮り続けてきたことと無関係ではないと思う。家族の感情のもつれや矛盾といったものを真面目に語っていくためには、真実の表情を捉えなければ、見ている者に共感を与えることはできない。私たちが日常に体験している家族のありさまを描こうというのだから、底の見える表現は、空々しく感じるだけだ。笠智衆の困惑や東山千栄子の諦観、原節子の慈愛の眼差しも、この角度からなら正直に物語れる...という想いが小津安二郎にはあったのではないだろうか...。
小津安二郎の眼差しは、少しお行儀は悪いが、家族の本質を引き出そうとする熱意と優しさを伴っている。そしてそれは、家族のための住まいを生み出そうとしている者にとって、必要とされる眼差しでもある。
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